「働き方改革」という社会的ジレンマ

最近、さまざまな場面で報じられる「働き方改革」。政府の方針ももちろんありますが、過労自殺などの社会問題もあり、特に総労働時間をいかに減らしていくか?という問題系にフォーカスが当たっています。個人的には育児と研究と仕事の両立を図る生活を試みていることもあり、副業解禁やテレワーク、ワークシェアリングといった、時間や場所にしばられない働き方の実現に強い興味がありますが、ここでは「総労働時間の削減」に絞って、私見(あくまで私見)を書いてみたいと思います。

まず、私自身の立場は、総労働時間の削減に賛成です。これは、法整備も含めて、なんらかの社会的制度、もしくはアーキテクチャーによって実現すべきことであり、各企業や労働者の「自主性」に任せられるべきではありません。資本主義における自由競争そのものを、一定程度否定しないといけないということも含めて受け入れることが、社会の公共的な価値にとって重要な選択だと考えるからです。その理由を、順番に述べてみます。

 

「労働生産性」と労働時間の関係

労働時間とともに、よく議論に上がるのは、日本は「労働生産性」が低い、という話題です。労働生産性は、労働時間あたりの生産額なので、労働時間は、労働生産性のパラメーターの一つです。この相互関係は、丁寧にみておく必要があります。

まず、労働生産性を上げることができれば、労働時間を減らすことができます。ただし、これは、生産額を一定に保つという前提に立つ場合に限られます。

逆に、労働時間を減らさず、一定に保てば、労働生産性の向上は、生産額の増加につながります。

この2つのロジックが混同されると、厄介なことが起こります。労働時間を減らすために、労働生産性を上げるはずなのに、労働生産性がひとたび上がってしまえば、労働時間を減らさずに、生産額を増やした方が、売上が上がることになるわけです。経営者は、一般に、収益を維持してコストを減らすことよりも、コストを維持して収益を増やすことのほうにインセンティブが働きます。なぜなら、株主が、同じ利益率であれば、収益が大きい方を望むからです。したがって、労働生産性を向上するというアプローチは、労働時間の削減よりも、労働時間を維持しながら生産額を増やす方向へと、容易に転換してしまいます。

さらにことを複雑にさせるのは、実は、労働生産性と労働時間には、逆の因果関係も想定しうる、ということです。すなわち、労働時間が少ない方が、勤労意欲や集中力を媒介として、労働生産性が上がる、というロジックも成り立つわけです。そうなると、経営者の思惑通りに事は運びません。労働生産性を上げるためには、労働時間を減らすことが必要で、労働時間を減らせば、生産額は増やせない、という帰結に至るからです。しかし、この「都合の悪い現実」を直視できる経営者はほとんどいません。なぜなら、そこに、「社会的ジレンマ」の原理が働くからです。

 

社会的ジレンマに陥る「労働時間の削減」

「社会的ジレンマ」とは、Wikipediaによれば「社会において、個人の合理的な選択が社会としての最適な選択に一致せず乖離が生ずる場合の葛藤(ジレンマ)を言う。」と定義されています。

ここでは、各企業の合理的な選択が、社会全体の最適な選択と乖離すること、という意味で用います。例えば、二酸化炭素の排出を、他の企業が抑制するかしないか不明な状況で、一企業が抑制したとしても、一方的にコストが上がって収益が悪化するリスクが高く、その企業の視点から見れば、二酸化炭素の排出を抑制しないという選択が、経済的に合理的ということになってしまいます。すべての企業が、同じように合理的に選択をしていくと、社会全体で二酸化炭素の排出を抑制することはできません。だからこそ、「排出権」という人為的なアーキテクチャーが必要になったわけです。

労働時間の削減も、これと同じジレンマを抱えています。競合他社が、労働時間を削減することが期待されない状況において、あるいは、「裏切り」の可能性に開かれている状況において、自社が率先して労働時間を削減しても、競争優位にはつながりません。むしろ、労働時間を維持しつつ、労働生産性を上げて生産額を増やすことこそが、経済的に合理的な(ように見える)選択になるのです。

つまり、競合他社も含めて社会全体が、労働時間の削減に向かうという保証が得られない限り、資本主義的な市場環境において、企業が労働時間を削減するインセンティブは低く見積もられます。

 

ジェネラリストの美学が隠蔽する命のリスク

このことは、経済合理性のみならず、感情面でも補強されます。これまでの日本企業の成長を支えたドライバーの一つは、終身雇用を前提とした正社員制度に基づく、「なんでもこなす」ジェネラリストでした。過去の成長を支えてきたマネージメント層には、その「成功体験」が色濃く残っているケースが少なくありません。つまり、「文句を言わずなんでもこなしてきたから、自分も会社も成長してきた」という強烈な自負が、まず認知的な構えとして埋め込まれ、そこに、経済合理性のロジックによる正当化が覆いかぶさっているのです。そこでは、過剰労働によるストレスや離職、過労死や自殺というのは、「自分たちが耐えてきたことに耐えられない」ことという偏見とともに、発生確率の低いリスクとして隠蔽されてしまいます。期待値計算でいえば、全体の労働時間を下げることよりも、いまあるリソースを「最大活用」して、生産額を上げることの方が、期待収益が高いと思われているのです。

年代を問わず、企業で「なんでもこなして」がんばってきた人たちこそが、企業のマネージメント層として活躍しており、その人たちの多くは、心の中では、「なんでもこなして」がんばることが望ましいという価値観から抜け出せません。特に、日本人には、「努力信仰」が強く、誰もが努力すれば、その時間に比例して成果が上がる、という文化的な刷り込みも影響をしているでしょう。やがて迫る人工知能の時代には、時間と成果が比例するような仕事は人間の仕事ではなくなる、にも関わらずです。

 

経済合理性を超えた社会的価値を直視できるか

いま必要なことは、社会の一人一人が、次の2つの現実を直視することです。

  1. 総労働時間の削減は、総生産額の向上のためではない。
  2. 労働者の人生や命のリスクは、発生確率で期待値計算すべきではない。

つまり、総労働時間の削減に、経済合理性はないことを認識した上で、それでもあえてそれを選択するという社会的合意を形成すべきなのです。

多くの議論において、「国際競争力」を高めるためには労働時間の適正化が必要だ、といった指摘もされています。しかし実は、それは労働生産性の国際比較において効率が悪いことを指摘しているに過ぎず、この議論を経済合理性の観点から推し進めるならば、労働生産性を上げた上で、他国よりも労働時間を長く維持した方が、競争力が上がるというロジックになってしまうのです(本当は、海外の優秀な労働者が獲得できないという機会損失がありますが、それは過小に見積もられがちです)。

どこかで、めぐりめぐって「総生産額の向上」につながるのだという幻想を断ち切らないと、「総労働時間の削減」を妨げるロジックはつねに入り込んできます。逆に、「経済合理性がないのであれば、労働時間を削減する必要はない」という社会的合意が形成できるのであれば、そのような選択肢も否定はしません。しかし私は、経済合理性に合致しないことを直視した上でなお、日本社会全体として総労働時間は削減すべき、と考えます。それが、身体をもつ人間が、健全に生活を営み、相互に命を大切にしていくために、さらには、少子化を食い止め、子どもたちの未来に希望を与えつづけるために必要だと思うからです。そして、この選択肢に経済合理性がなく、社会的ジレンマに陥る構造になっている以上、それを企業の自主性に任せることは不可能です。

現実を直視できない一部の企業にどんな反発があろうとも、制度やアーキテクチャーによって、労働時間を例外なく強制的に制限するという社会的合意を形成するしかないのではないでしょうか。それを所与のものとしたときに、新たな創意工夫、イノベーションへの可能性が開けてくるように思います。