ランキングの祭典としてのオリンピック

世界最大のメディア・イベントといってもよいオリンピック。2018年2月には、平昌で冬季オリンピックが開催されました。フィギュアスケート男子では、羽生結弦選手が金メダル、宇野昌磨選手が銀メダルと、日本人が1位と2位のランキングに輝きました。この報道を見ていて私がとても興味深く感じたのは、怪我から立ち直り見事連覇を果たした羽生選手が、試合前後において、勝ち(1位)にこだわるコメントを連発していたのに対し、銀メダルとなった宇野昌磨選手が、順位(ランク)というよりもスコアや「自分らしい演技」にこだわっていたことです。

たとえば、2018年2月11日付のスポーツ報知の記事によると、羽生選手は「どの選手よりも勝ちたい気持ちが強くあると思いますし、どの選手よりもピークまで持って行く伸びしろがたくさんある選手の1人だと思っているので、しっかりと頂点というものを追いながら頑張っていきたい」と語っています。一方宇野選手は、2月15日付の日刊スポーツの記事で、「自分に負けない演技をして、それを見せたいなと思っています」と語っています。

ナンバーワン指向を前提とするランキング

この「勝つ」ということへの姿勢の違いは、いわば、羽生選手が「ナンバーワン」にこだわったのに対し、宇野選手は「オンリーワン」を指向していた(ように語っている)、という違いともいえるでしょう。

しかし、スポーツ競技において、オンリーワン指向は必ずしも高評価につながりません。多くの報道においても、ネット上の言説においても、求められるのはナンバーワン(あるいは、ナンバースリー以内)であること、つまり、各競技のランキングシステムにおいて「メダル」を獲得することに集中します。少なくとも、オリンピックというイベントにおいて、オンリーワンが報道されるチャンスはほとんどないわけです。

このことは、ナンバーワンを目指すランキングシステムへの信仰が、社会の中でとても根強いことを示しています。あえていえば、高いスコアを出すことや、自分自身がベストと信じる演技をすることよりも、(例えスコアが低くても)競争相手に勝つこと、相対的なランキングが上位になることのほうが優先される傾向が、社会全体に共有されているということです。

ランキングは格差の拡大装置

近代スポーツが、ある特定のルールに基づいて競争を行うゲームである以上、これは当たり前のことです。しかしそれでも、スコアではなく順位に、より注目が集まるということには、注意をしておく必要があります。なぜなら、「金メダル」と「銀メダル」の格差は、そのスコアの「差」の大小とは無関係に、とても大きな格差となって社会に認知されるからです。同じように、メダルがもらえる3位以内と、4位以下では、例えそのスコアが僅差であっても、やはりとても大きな格差が生じてしまうわけです。

ここで指摘したいことは、ランキングシステムが悪いということではありません。ランキングは、非専門家にとってももっとも単純で、もっともわかりやすい序列化の指標として、社会で広く用いられていますし、その「わかりやすさ」というメリットは明白です。しかし、ランキングはそのわかりやすさと引き換えに、対象となる人間やチームのパフォーマンスやスコアの差を見えなくしてしまい、時にその格差を実態以上に拡大してしまう装置でもあるのです。そして、そのランキングの格差は、次のパフォーマンスへと確実に影響を及ぼします。特に、メダルを取れたかどうかは、その後のスポンサーの獲得や練習環境、報道における注目度など、あらゆる面で選手の環境に格差を生むでしょう。逆に、それがわかっているからこそ、多くの選手やチームは、「勝つ」ことにこだわるインセンティブが生じるわけです。

メダルの価値を語るとき、そこには、格差が誇張され拡張されうる記号が内蔵されていること、つまり、そのランキングの差が、実際のスコアの差以上に大きく感じられるようなしかけが潜んでいることには、つねに注意を払うことが重要なのではないでしょうか。

オリンピックの熱狂に隠れるパラリンピックの多様性

この、ランキング指向は、オリンピックとパラリンピックの人気の差としても現れています。あえて単純化すれば、オリンピックが同じ土俵の上で「ナンバーワン」を競うイベントなのに対し、パラリンピックは土俵の多様性を前提として「オンリーワン」を魅せるイベントなのです。パラリンピックは報道量も少なく、関心をもっていたとしても情報を得るチャンスが少ないことはもちろんあります。しかしそれ以上に、パラリンピックが前提とする多様性が、同質性を前提とするランキングシステムと整合しないことで、どうしてもオリンピックのような熱狂を生み出しにくくなっているのではないかと思います。

このことは、「ナンバーワンよりオンリーワン」といわれ、価値観や生き方が多様化する現代社会においてなお、ランキングという価値観の同一性を前提とするシステムが強力に浸透している現状を端的に表しています。オリンピックがあれだけの熱狂を生み出しつづけている一方、ダイバーシティの象徴であるパラリンピックが必ずしも盛り上がっていないこと、この社会の「二枚舌」のような構造を、しっかりと見極めていくことは、真に多様性に寛容な社会へと変革していくために重要なステップとなるのではないでしょうか。