失敗を他人のせいにしないことから「幸せ」は始まる

不惑の年を前にして、今年から、大学院に通うという挑戦をはじめたわたしですが、同時にサラリーマンとしての収入を大きく減らすことになり、日々、「これでよかったのか」「これからどうするのか」という不安と戦っています。もちろん、自分の意志で選んだ道ですから、突き進むのみなわけですが、やってみて初めて気づく困難もあり、不安もたくさんあるわけです。

何よりも大きなことは、自分の人生が、未来が、すべて自分次第であるという当たり前のことが、当たり前に迫ってくるということです。すなわち、今の自分の立場も、肩書も、存在も、価値も、何も約束されていない代わりに、自分の責任で築いていくことができる。未来が未確定であること自体が、不安の源泉である一方、実は、このこと自体が、「幸せ」に生きるということなのではないかと、日々かみしめています。

当然ながら、人生のあらゆる結果は、すべて自分の責任です。成功しようと失敗しようと、誰でもない自分自身の選択の結果として引き受けるしかありません。しかし振り返ってみると、このことは、フルタイムでサラリーマンをしていた時は、当たり前ではありませんでした。というより、当たり前にせずに済む認知の仕方が可能な環境でした。

 

失敗したとき、どこに原因を求めるか?

組織に安定的に所属して生活をしていると、「この仕事が失敗したのは、自分のせいではなく、〇〇が悪かったのだ。」という原因帰属が、簡単にできてしまいます。拠り所になる組織がない場合、人生の選択の原因を自分以外の何かに帰属させることは論理的に飛躍を伴いますが、組織に所属して行動した選択においては、その原因を、組織や環境に帰属させる認知の仕方が、比較的容易である、ということなのです。

もちろん、組織に所属して行動するということは、その組織の利益に貢献することが求められるわけで、仕事の成果の原因を、自分ではなく、組織に帰属することが「正しい」ケースも多くあります。わたしがここで述べたいことは、個々の結果に対する原因帰属が、「正しく」なされているかどうかということよりも、いわば「デフォルト」の認知的構えとして、行動の原因帰属を、自分に帰属させようとするか、環境に帰属させようとするか、という傾向の違いがあるということなのです。

 

セルフ・サービング・バイアスという心理

社会心理学の研究によると、人間には、認知的な不協和を抑止するメカニズムがあると言われています。認知的な不協和とは、ある認知(=信念)と矛盾する認知が発生する状態です。例えば、「わたしは能力が高い」という認知(信念)があるにも関わらず、「わたしが失敗した」という「矛盾」が発生することを指します。この認知的な不協和を解消するため、人間は、「無意識」のうちに、一方の認知を他方の認知に整合するように、変容させてしまうと言われています。先ほどの例で言えば、「能力のあるはずのわたしが、失敗したようにみえるのは、運が悪かったからだ(=能力は悪くない)」と結果の原因帰属を変容させることで、認知的な不協和を解消します。

この例のように、原因帰属において、自分の失敗を他人や環境のせいにする傾向、逆に、自分の成功を自分のおかげだと思う傾向を、セルフ・サービング・バイアスと言い、一般的に見られる心理的傾向とされています。

(文化心理学の研究では、セルフ・サービング・バイアスは、欧米社会において顕著であるものの、日本においては顕著な傾向とは言えないとする説もあります。)

重要なことは、「失敗を他人や環境のせいにする」という傾向は、「無意識」的に発生してしまう認知的な「構え」であるということです。つまり、人間は自然と、「自分を守る」方向に都合よく認知を変えてしまい、しかもそれが「都合がよい」という自覚をもたない、ということなのです。これを防ぐには、かなり強く意識的に、このような傾向があることを肝に銘じ続けるしかありません。

もし認知的な「デフォルト」として、自分自身に原因を求める「構え」が形成されていれば、この「都合がよい」解釈にかなりの確率で気づき対処することができます。しかし、「デフォルト」が他人や環境に帰属させるような「構え」になってしまうと、これに気づき修正することは容易ではありません。所属する組織や仕事の環境を含め、いかに自分のポジションを相対化してとらえ、不安を恐れずに受け止めていられるか、それがキーになってくるのではないでしょうか。

 

他人のせいにしていては成長の機会を失う

そもそも、原因帰属を、他人や環境に求めてしまうと、何が問題なのでしょうか?

まず、真因が何であれ、自分の行動によって変えられたであろう何かを発見したり探索したりする視点が失われます。原因が自分にあるかもしれないという問いをもたない限り、自分の選択に対する反省や吟味が行われず、一部であっても、わずかであっても、結果をコントロールできた可能性に対して、気づくことができなくなるわけです。それはすなわち、成長の機会を失うことであり、知識や知恵を、経験として自分のものとしていく機会を、自ら放棄していくプロセスに他なりません。

次に、これが極端になると、「あいつはいつも人のせいにする」となって、周囲とのコミュニケーションがうまくいかなくなります。自らの役割を、責任をもって果たすことは、周囲から信頼を得る必要条件です。しかし、役割を果たすことに失敗すること自体よりも、「失敗した責任を回避しようとする」ことのほうが、より信頼を得られない行動であることは間違いないでしょう。中長期的に見れば、たとえ客観的に自分の責任でなかったとしても、自分にできたことはなんだったのか?と問い直せる人の方に、信頼は集まっていくものなのです。信頼を得るために大切なのは、「失敗をしない」ことではなく、「失敗を人のせいにしない」ことなのではないでしょうか。

 

自分の人生を「自分のもの」とすること

原因帰属を、他人や環境に求めてしまう傾向の、最も厄介な側面は、自分の人生そのものに対する納得感を失ってしまうことです。

本来、自分の人生は、自分の力で選択し、切り開いていき、その結果すべてを、自分で受け止めるべきものだとわたしは思います。そしてその「選択の主体性」の認知こそが、人生の納得感、ひいては幸福感の源泉にあたるのではないかと思います(ポストモダン的社会環境において、この認知をもちつづける困難については、一旦おいておくとして)。

ところが、あらゆる行動、あらゆる結果の原因を、「今の会社がこうだから」「景気がこうだから」「運がめぐってこないから」などと、外部に求める認知が常態化してしまえば、何も自分の意志で決められたことなどなかったことになってしまいます。もし、人生が「つまらなく」思えてしまうことがあるなら、こうした認知の積み重ねによるものかもしれません。つまり、自分で人生を「つまらなく」しているのです。

認知的な不協和に対して、「現実」を「都合よく」解釈することで、対処することは、もちろん心理的な健全性の確保(つまり、ストレス回避)に有効な方策です。しかし、それを自覚せず依存してしまうと、いつのまにか、自分の人生が自分のものでなくなり、惰性でつねに環境に「不満」を言い続けることになりかねません。

不安であっても、自信がなくても、自分の人生を自分のものとして引き受けること、そこから、幸せははじまるのではないでしょうか。