何ができるのか見えるように「デザイン」する

デザインとは?

「デザイン」と言って思い浮かべることは何でしょう。

見た目に美しいモノを描いたり組み上げたりすること、業界用語的に言うと、クリエイティブを作るようなこと、でしょうか。

日本人の一般的な感覚でいう「デザイン」とは、スタイリング、つまりは見た目を決めることを指すことが多いようです。いわゆるアートの領域です。
一方、英語の”Design”には、「設計」という意味も含まれており、機能を実現するための仕組みづくりと、その見た目を形成していく活動は、不可分の概念となっています。

日本における「設計」は理系の工学の領域、つまりある種のテクノロジーとしてとらえられ、「デザイン」はそれとは対極ともいえる、アートの領域、つまり芸術的・感性的な何かとしてとらえられています。
もっともこのような「伝統的」な分類は、日本でも最近崩れ、英語の”Design”に近い疑念として理解されるように意味が拡張されてきているようです。

先日、Suicaの自動改札のデザインや、OXOのキッチンツールのデザインを手がけたインダストリアルデザイナーで、東大情報学環の教授でもある山中俊治先生の講義を受ける機会がありました。山中先生によれば、デザインとは、

ひとと人工物の間で起こるほぼ全てのことを計画し幸福な体験を実現すること

だそうです。

単なる見た目の美しさを形成することではなく、「幸福な体験」を実現するためにいかに技術を具現化できるか?それが「デザイン」という行為であるとおっしゃっていたのが印象的でした。

技術という理性の領域と、幸福という感性の領域をいかに媒介するメディアを構成できるか、つまり、メディアの機能としての「伝達」の領域だけでなく、いかに「共感」を湧き起こせるか、しかもそれが「幸福」につながるか、という挑戦が、まさにデザインするという実践なのだと思います。

「デザイン思考」というコンセプトが流行しているのも、社会が、記号的な消費ではなく、「共感」レベルにおける「幸福な体験」を渇望している、ということの表れなのかも知れません。

 

仕組みをあらわにするデザインの重要性

テクノロジーの素性を側をデザインすることで隠してしまわない。
どういう構造か、どういう仕組みか、何ができるのか、あらわになるようにデザインする

山中先生がデザインにおいて大事にしていることだそうです。

デザインが、プロダクトやサービスの「仕組み」や「成り立ち」を隠蔽するものであってはならないということ、このことは、コミュニケーション一般におけるメディアのあり方にも、通じる考え方のように思います。

なぜなら、日々接触しているメディアによって媒介されるコミュニケーションが、「伝達」のレベルではなく「共感」のレベルに至るためには(=記号的な消費ではなく、幸福な体験の実現に近づくためには)、コミュニケーションの当事者が、そのメディア自体の存在や「仕組み」を、意識的にとらえることが有効であると考えられるからです。

例えば、Googleの検索結果のランキングが、いかなる仕組みのもとでデザインされているか、そのアルゴリズムの存在を意識するか、しないかによって、Googleを媒介したコミュニケーションによって構成される社会的現実は、変わったものになるかもしれません。
あるいは、テレビ番組の報道内容が、いかなる制約のもとでデザインされているか、その編集意図の存在を意識するか、しないかによって、テレビを媒介とした情報受容のあり方は、変わるかもしれません。

デザイナーの立場としても、ユーザーの立場としても、このシンプルな考え方を貫くことは、実際にはとても難しいことです。メディアが媒介するコミュニケーションを、一方的な情報受容・情報利用ととらえるのではなく、インタラクティブな「共感」の実践ととらえ、送り手と受け手の関係性を超えて、相互の視座を循環させるような実践そのものをデザインすること、それが、メディア・リテラシーなのかも知れません。