5歳児の子供は、かなりの頻度で、左右反転した文字を書きます。気になっていろいろ観察していると、特定の文字の形を勘違いしているというわけではなく、どうやら、左右反転した文字も、元の文字も、「同じ形」だと認知しているようなのです。

mirror letterこういう文字のことを「鏡文字」もしくは「鏡映文字」と言うそうで、幼児にはよく見られる現象だそうです。

また、うちの子供の例でいうと、3歳の頃は絵本やタブレットの動画を見るとき、上下反転していても気にせずに見ることができていました。

つまり、文字にかぎらず、左右にかぎらず、上下左右の認知全般が、生まれつき固定化されているわけではないということです。

この現象は、発達心理学でも研究されており、ギブソンら(1962)や、田中(1985)の研究を総合すると、

  • 鏡映文字の「誤認」は5歳をピークに、6歳以降減少する
  • 馴染みのない「図形」よりも馴染みのある「文字」のほうが「誤認」しにくい

ということまでは実証されています(こちらの記事を参考にしました)。

原因には諸説あり、

  • 脳の半球の発達不均衡によるという説
  • 眼球の左右運動が未発達だからという説
  • 知覚空間における方向性を変えないため類同視されやすいという説

があるようですが、決定的な結論は出ていないようです(ちゃんと探せてないだけかもしれませんが)。

 

左右を区別すること自体の特殊性

「文字」が馴染みのあるメディアとして識別が容易になるにしたがって、鏡映文字の類同知覚が現象するということ、同じ年齢でも、文字か図形か、また文字の種類(ひらがな、漢字)によって類同知覚の発生率が異なることから、脳や眼球の生理的な制約のみによるものではなく、「文字」を含む、メディアの認知に関わる問題(すなわち3番目の説)ではないかと直観的には思います。

よくよく考えてみると、「文字」のような、2次元の紙や画面の上に表現される記号は自然界においては極めて特殊な形態です。「文字」は、2次元上にしか存在しないからこそ、左右が反転すると意味をなさないわけですが、自然界の3次元空間上にある事物一般に、そのような特性を持つものは存在しないのではないでしょうか?

このことは、「絵」と「文字」の違いを考えてみるとより具体化します。自然界の事物、たとえばゾウを絵に描くとき、ゾウの鼻が左側でも、右側でも、ゾウはゾウです。3次元空間を2次元平面に射影するという操作において、左右が固定化されることはまずありません。

ここから逆説的に考えられることは、幼児にとって、「文字」という特殊な記号は、当初、「絵」のような、実世界のメタファーとして認知されているのではないでしょうか。3次元の何かを2次元に表現している「絵」ととらえる限りにおいて、左右が反転しても「同一」であると認知することは、極めて自然な発想であると考えられます。

むしろ、「文字」という「お約束」を、強制され、内面化させられることによって、多様な解釈可能性を一つの「意味」へと、捨象していく結果、文字が「読める」ようになるのだと思います。「発達」するということは、レールから外れる可能性(=無限の創造性)を少しずつ摘み取っていくプロセスでもあるのです。

 

大人には「左右」の識別が染み付いている

ところで、大人にはこれと逆のことが起こっています。

「鏡を見た時、左右は逆になっているのに、上下は逆になっていないのはなぜか?」この問いに、大人が答えられなくなってしまう、というものです。

大人は、無意識のうちに、内面化された「視点」を使い分けて方向を識別します。鏡に映った自分を想像するとき、鏡の像をそのまま知覚するのではなく、鏡の像の視点と自分自身の視点を「神の視点」から比較してしまい、左右の不一致を「発見」してしまうのです。

本当は、鏡の映像は反転などしていないのです。右手のある位置は、鏡に向かって右側であり、右手は、鏡の右側に映っているはずです。何も反転していません。

それを、鏡に映った人物の視点に180度入れ替わって見た時に、初めて右が左に変わるのです。そして、鏡に映った「文字」が反転して見えることは、大人にとっては混乱の極みかもしれません。「文字」は2次元上で一方向から「読む」ことしか想定されていない記号なので、それが空間性をもった瞬間混乱を呼ぶわけです。幼児の鏡映文字認知と、まさに逆のことが起こっていることになります。

幼児のようにピュアな知覚の仕方をしていれば何も不思議に思うことはないのではないでしょうか(そもそも、問いの意味がわからない、ということだとは思いますが)。

 

もちろん、幼児にとっては、社会的な常識を身につけた大人になっていく過程において、こういったメディアの習得は、欠かせないものです。

しかし、「発達」というレールに乗せることを急がせるよりも、多様な可能性を少しずつ切り捨てていくことへの自覚を持ちつつ、このプロセスを噛み締めながら、育児に取り組めたらと思います。


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