問題解決のためのフロー思考とストック思考
前回のエントリーでは、日常の現実がブラックボックスに囲まれていること、それを意識して「開けて」いくことについて述べました。
今回は、この、ブラックボックス化する日常世界を捉える一つの切り口として、「フロー思考」と「ストック思考」について考えてみます。
フローとは、流れを意味し、たとえばキャッシュフローといえば、お金の入出金の流れを指します。一方、ストックとは、蓄積を意味し、お金の例でいえば、たとえば預金残高がストックにあたります。
このメタファーを、問題解決や情報処理の思考法にも当てはめて考えてみようというのが、今回の試みです。
フロー思考とは、ステップを次に進める時間的なスピードを優先し、少ない情報・知識から「判断」によって「流れを止めない」思考法、としておきましょう。
一方、ストック思考とは、情報や知識を蓄積し、根拠ある「選択」によって「着実な実現を目指す」思考法です。
当然、この二つの姿勢は相反するものではなく、現実の場面では適切に組み合わせることが求められます。
フロー思考の優位性と危険性
情報社会といわれる現在、人間は無意識のうちに、フロー思考に偏っています。実際、環境変化の速さに応じて、臨機応変に「判断」し、先に進めることが優先されることが多いのではないでしょうか。
確かに、変化の激しい時代、スピードは価値を生みますし、少ない情報でも「判断」し「やってみる」ことは、ある種の「リーダーシップ」として重要なスキルであることは間違いありません。
この、フロー思考を純粋に徹底していくと、どうなるでしょうか?
速い「判断」には当然リスクを伴います。したがって、結果論として、解決への最短距離とならない道を進んでしまうことで、時間や資源を無駄にすることがあり得ます。
こうした顕在的なリスクに対しては、多くの場合自覚的に対処することができます。成功確率とリターンを期待値として計算し、リスクとのバランス自体を、「判断」に持ち込めば、結果として失敗したとしても、想定内でリカバーすることがある程度はできるでしょう。
しかし、たとえ期待値をコントロールできたとしても、フロー思考の徹底には、潜在的な「構え」の変容を引き起こす、別のリスクがあります。
フロー思考の行き着く先は、問題解決を、ブラックボックス関数として扱ってしまうことです。つまり、「(なぜかはわからないが)こうやったらこうなった、だからオッケー、そのパターンを繰り返そう」という発想です。うまくいく表面的な「法則」をとにかく当てはめることが目的化し、その中身や真の理由を問わなくなってしまうのです。
例えば、「売上が弱い」という問題が起きた時に、ストック思考的な情報収集を怠り、「とにかくすぐできること」を優先し、前回「このキャンペーンを実施したら売上が伸びた」という少ない情報をもとに、同じキャンペーンを実施するようなやり方がこれに当たります。前回のキャンペーンがなぜ成功したのか、きちんとストックとして知識化されていれば良いわけですが、「フロー思考」に染まってしまうと、ただ「うまくいったことがある」というだけの情報で、深く考えずに先に進めるクセがついてしまう可能性があるのです。
フロー思考が求められる時代環境だからこそ、意識的にその経験をストックとして知識化していくこと、すなわち、ストック思考を組み合わせることこそが、実は、フロー思考の成功確率をあげるということ、これを意識していくことが重要ではないでしょうか。
なぜ、フロー思考がもてはやされるのか?
ではなぜ、現代において、フロー思考がもてはやされるのでしょうか。あるいは、フロー思考が現代の社会に適応的な理由はなぜでしょうか。
それは、ストック思考の前提となる、「知識」の確からしさが、失われてしまったからと考えられます。
社会学者の宮台真司は、「ポストモダン」と呼ばれる現代を「誰もが社会の『底が抜けて』いることに気付いてしまう」社会と評しています。哲学や社会学の世界では、以前から、普遍的「真理」の不可能性について議論されてきました。それが、学術的な議論ではなく、一般社会においても、普遍的な「真理」の存在を信じられなくなっている社会、それが「ポストモダン」だというわけです。
それは、誰もが共通に「常識」だと考えていたような事柄が、「多様性」という価値観にとってかわっていくことに対応しています。「必然」であったかのように感じていた事柄が、実は多くの選択肢のなかの一つであったと相対化されるべきものと映るわけです。
例えば、すべての企業が、終身雇用を前提にしていた高度成長期においては、年功序列によって給料が上がり、経済成長とともに生活が豊かになっていくことが、「必然」のように映っていたはずです。その時代には、能力主義やワークライフバランスなどは、概念として想像し得ない「外部」だったわけです。今や「年功序列」は風前の灯ではありますが、一方で「能力主義」が「普遍的真理」として完全にとってかわるわけではなく、いずれも「可能な選択肢」として併存され、雇用体系は「多様化」しているわけです。
このような「多様化」が社会のあらゆる領域で起こっていることが、「ポストモダン」と呼ばれる、「普遍的真理」の喪失ということです。
これに伴って、社会には、「知識」そのものの権威が喪失し、ストックされた知識に基づいて思考すること自体に対して懐疑的な傾向が生まれ、社会全体がフロー的な思考にシフトしているのだと考えられます。
メディア環境のフロー化
メディア環境も、これに対応して、フロー的なコミュニケーションに特化したものが増えています。例えば、LINEやTwitterは、典型的なフロー型コミュニケーションメディアです。そこでは時間的な即応性が重要視され、過去の情報がストックとして活用されることは想定されていません。Facebookのタイムラインも、当初のコンセプトはともかく、ネットワークが拡大した現在では、フロー的に「消費」される使い方が一般的ではないでしょうか。特に、「いいね」というツールは、極めてフロー的と言えます。ほとんど深く考えずに、「いい」と思ったトピックに対して反射的に「反応」するものであって、なにか情報を蓄積したり熟慮したりする時間的余地のある設計にはなっていませんし、ユーザーもそれを求めてはいません。このような傾向は、批評家の東浩紀が「動物化するポストモダン」と評した事象と相即しています。
この傾向は、メディアのみならず、ビジネスにおいても顕著です。例えば、いわゆる「シェアリングエコノミー」も、ストック型からフロー型への、消費スタイルの移行としてとらえることができます。そもそも、何かを購入し「所有」するという概念自体が、ストック的な思考に基づく行動です。そこには、モノの価値が、普遍的で変わらないと信じられるからこそ、所有したいという動機が生まれるわけです。しかし、「ポストモダン」の社会においては、モノの価値は変化し代替可能な選択肢の一つでしかなく、いつその価値が失われるかわからないと考える人が多くなります。そうなると、ストック的に「所有」することはリスクなわけです。フロー的に必要なときだけ「利用」し、「共有」するという発想へ移行するのは、経済的合理性以上に、社会的な適応性の側面が大きいのではないでしょうか。
「外部化」されつづけるストック
これらの時代的様相の裏返しとして、ストック型のメディアは、知識の「外部化」に向かっています。ストックする価値のある普遍的な知識が失われている以上、それを内部にとどめる、つまり、記憶として脳のリソースを消費するよりも、データベースとして外部に配置しておいたほうが環境の変化に適応的です。その代わり、変化し続ける知識を、フローとして常に取り出すことを可能にしたメディアが検索エンジンであり、スマートフォンなわけです。この「外部化」はしかし、多くの指摘がある通り、人間の記憶能力そのものを失わせます。反射的で動物的な「反応」ではなく、主体的な「判断」を行うためには、内部に一定の経験や知識をストックしておくことは欠かせません。「知識」への信頼が失われたからといって、それを吸収したり蓄積したりすることの重要性が失われたわけではないのです。
さらに今起きていることは、ストックのみならず、フロー、あるいは思考の全体の「外部化」です。「人工知能」と呼ばれるアルゴリズムに対するある種の「熱狂」といってもいいブームは、人間の思考そのものをブラックボックスにしていきます。社会に普遍的な知識が失われ、変化し続けることが前提となった結果、それに対応する思考を人間自身がコントロールできない領域に「外部化」しようとしている、そんな「フロー思考」の極端な展開として、このブームを自覚的にとらえておく必要があります。
もちろん技術やメディアの進歩は、よりよい社会生活には必須の要素です。しかし、その流れ(=フロー)に身を任せるのではなく、その流れを作っている社会的要因に対して意識的であることで、より健全な「思考」が可能になるのではないでしょうか。