言語化できない何かを共感するということ

モヤっとゼミ

先日あるゼミに出席したときのこと。ある先輩が研究計画について、発表をしました。

ところが発表が終わった後、ゼミの空気が「モヤっと」してしまいました。
なぜかというと、その発表、「なんとなく」こういうことが研究したいんだな、ということと、その想いの強さは参加者全員に伝わったのに、配られたレジュメに書いてあることが「なんか違う」という感じだったのです。 つまり、ゼミで話すことによって、やりたいことの「共感」はできたのですが、レジュメというドキュメントからは、それが「伝達」されなかったのです。

 

コミュニケーションの2つの次元

コミュニケーションには、「伝達」と「共感」の2つの次元があると言われています。

この「伝達」と「共感」を媒介するものが「メディア」なわけですが、今回のケースは、ゼミというメディアで「共感」には成功したものの、レジュメというメディアでは「伝達」に失敗した、と解釈することができます。
これが、ゼミという場ではなく、もし、ビジネスミーティングの場だったら、「伝達」に失敗した時点で、コミュニケーションが成立することは困難だったと思われます。
なぜなら、多くのビジネス・コミュニケーションにおいて、「伝達可能な」アウトプットが必須となるからです。

 

ビジネス・コミュニケーションの伝達偏重

単純化した例で考えてみましょう。

「伝達」レベルのコミュニケーション:
「商品Aの売上が悪い。顧客満足度も0.5ポイント下がっている。」

「共感」レベルのコミュニケーション:
「なんか商品Aってイケてない気がする。これじゃあ絶対買わないよ。」

どうでしょうか?

ビジネスの現場では、「伝達」レベルの「客観的」なコミュニケーションが強く求められます。「共感」レベルの言い方をしたら、「客観的に言え!」と怒られることすらあります。
しかし、本当に、伝達力の高い、「客観的」な表現の方が価値が高いのでしょうか?伝達力を高めるために、言語化・定量化を行うとき、私たちは無意識のうちに、共感可能なエクスペリエンスの「ニュアンス」を切り落としてしまいます。

非常に逆説的ではありますが、伝達力が高いコミュニケーションは、伝達すべき内容を失っている可能性があるのです。

このことには、常に意識的でありたいと思います。

 

共感できるコミュニケーションを目指して

最初のゼミの話に戻ると、

「共感はできた、伝達はできなかった」

という状態は、

「伝達はできた、共感はできなかった」

という状態よりも、はるかにマシなのではないか、というのが私の考えです。

後者の場合、そもそも共感すべきメッセージが実在していない可能性すらあります。すなわち、伝達そのものが目的化しているケースです。
敢えて単純化すれば、コミュニケーションの目的は、共感してもらうこと、そして、伝達は、その目的のための手段に過ぎないのです。実際はもっと複雑で重層的なケースも多いですが、伝達と共感、この二重性を意識することが、円滑なコミュニケーションのためには不可欠なのだと思います。

体験や現場感、直観に根ざしたもののみが、共感を得られる。

共感を得られないようなメッセージを伝達し続けるだけでは、人は動かない。

ということではないでしょうか。

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