ファクト思考の重要性と落とし穴

ファクトの確認はマスト

物事の因果関係を知り、問題解決に役立てようとするとき、「ファクト(事実)をベースに考えよ」とよく言われます。当然ながら、「ファクト」を正しく把握することは、問題解決に当たり非常に重要なプロセスです。

例えば、
「若い世代の投票率が上がれば、野党の得票が増える」
という言説は妥当でしょうか?

一見正しそうに聞こえますが、この言説が妥当であるためには、少なくとも
「若い世代ほど、野党の支持率が高い」
という前提が成り立つ必要があります。
(あえて厳密に言えば、「与党支持者と野党支持者の投票に行く確率、および無効票が発生する確率が同じである」なども必要条件です。)

実際のところどうでしょうか?
日経新聞の記事によると、共同通信の出口調査の結果として、

自民党への投票を年代別に見ると、20歳代が43.2%と最も高かった。さらに30歳代の40.9%に続いて、18、19歳からの投票の割合が高い。40歳代以上の各年代はいずれも4割未満だった。

と記載されています。

つまり、「若い世代ほど、自民党の支持率が高い」が、ファクトです。
(実は、これをファクトと認定するためには、この出口調査のサンプリングが適正であり、代表性が担保されていることが前提となるのですが、ここでは置いておきましょう。

したがって、
「若い世代の投票率が上がれば、野党の得票が増える」
という言説は、妥当とは言えないということになります。

 

ファクトから導かれる因果関係はファクトなのか?

次に考えたいのは、
仮に「若い世代ほど、与党の支持率が高い」というファクトが得られたとして、
「若い世代ほど、与党の政策に共感している人が多い」と言えるか?という問題です。

後者は、ファクトではなく、ファクトから導かれる仮説に過ぎません。
もちろん妥当である可能性はそれなりに高い仮説だと思いますが、あくまで可能性の話であって、論理的に導かれる結論ではありません。

ところが、次のように記述してみるとどうでしょうか。

「若い世代ほど、与党の政策に共感していることは、データによって示されている。実際、30代以下の与党の支持率は4割を超えているが、40代以上は4割未満である。」

この言説、一見論理的に正しいように見えませんか?
つまり、「若い世代ほど、与党の政策に共感している」こと自体が、ファクトかのような感じがしてきませんか?

ファクトに基づいた思考の怖いところは、ファクトが添えてあることで、かえって、ファクトと仮説の識別がつきにくくなり、仮説を無条件に正しいと思い込んでしまう危険性をはらむことです。

実は、
「若い世代ほど、与党の支持率が高い」というファクトからは、他にもたくさんの仮説を生み出すことができます。
例えば、

  • 若い世代ほど、憲法改正に前向きである。
  • 若い世代ほど、アベノミクスの恩恵を実感している。
  • 若い世代ほど、野党共闘への嫌悪感が強い。
  • 若い世代ほど、政策に実感がなく現状維持に流されやすい。
  • 若い世代ほど、景気に敏感で福祉には鈍感である。
  • 若い世代ほど、与党系政治団体への参加率・忠誠度が高い。
  • 若い世代ほど、野党系政治団体への参加率・忠誠度が低い。

もっとひねった仮説になると、例えば、

  • 若い世代ほど、社会に不満がある人(潜在的野党支持層)は投票に行かない。
  • 親と同居している若い世代は与党支持層が多く、投票に行く確率が高い、親と別居している若い世代は野党支持層が多いが、親元に住民票があるため投票率が下がる。

など、出口調査における「支持率」の外側に隠れた因果関係を想定することすらできます。

 

ファクトは「信念」となりうる仮説を選択するための手段

重要なことは、「若い世代ほど、与党の支持率が高い」というファクトからは、無数の仮説を生み出せる
そして、いずれの仮説も、そのファクト自体からは論理的に実証されない、ということです。(もちろん仮説の「確からしさ」の程度は異なります。)

これを認識しないと、自分が信じる最初の「仮説」を、「ファクト」と勘違いし、他の仮説を間違いだと指摘する態度をとってしまう危険性があります。

では、仮説を検証するために、新たなファクトを見つけなければならないのでしょうか?
もし、すべての仮説をファクトに基づいて検証しようとしてしまうと、方向性や打ち手が示せぬまま、ファクト調査ばかり時間を取られてしまうということになりかねません。

実は、すべてのファクトを集めきって論理的に正しいことだけを基準に「判断」することは、現実的ではなく、どこかでファクトから「飛躍」して「決断」する地点があるのです。優れたリーダーは、これを無意識的かつ的確に「決断」します。論理的帰結に見える「判断」も、実は、ある仮説を信じるという主観的「決断」なのです

ファクトは、論理的・客観的に間違いのない打ち手を探す道具ではなく、
主観的な「決断」を合意に導くための材料と考え、ファクトの検証を目的化しないことが重要ではないでしょうか。

最後に、ここに書いてある記事内容そのものが、ファクトに基づかない仮説の塊だということを、お断りしておきます。

※ちなみに、私自身は、何を「ファクト」とみなすかという意味の体系そのものが社会的に構成されるという立場をとりますが、この記事では一般的な意味での「ファクト」を前提としています。