メディアの現実構成力を乗り越える

そもそもメディアリテラシーって?

メディアリテラシーとは何でしょうか。

Wikipediaによれば

情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。

この定義はかなり一元的なもので、実際にはもっとさまざまな側面があるのですが、さしあたって中心的となるのは、メディアを適切に活用し情報を解釈したり表現できるための気構え、といったところでしょうか。

 

メディア接触が作り上げる「世間話」の怪

先日、電車の中で、ある老夫婦の会話が聞こえてきました。
某銀行のカードローンの吊り広告を見ながらの「世間話」です。
(カッコ内は私の心の声です。)

夫「最近銀行のカードローンが問題らしいね。」

(何かのニュースで見たのかな。典型的なアジェンダセッティングだ。)

夫「マイナス金利なのに、高い金利で儲けようとしている」

(あれ?そこが問題なんだっけ?)

妻「1.9%からって、ずいぶん高いね。住宅ローンだって0.6%でしょ」

(えー、高いか?住宅ローンは有担保、カードローンは無担保だよ?)

夫「銀行は法律の規制がかからないんだ」

(うーん、グレーゾーン金利の話と総量規制の話がごっちゃになってる?)

夫「若い人は銀行にダマされて、こういうの借りちゃうんだよ」

(カードローンの主要顧客って若者だっけ?)

突っ込みどころは、カッコ書きで入れた通り満載なわけですが、そもそもなぜ、このようなコミュニケーションが成立してしまうのでしょうか。

おそらく、この男性は、テレビのニュースか何かで、「銀行のカードローンが問題だ」というレポートを見たのでしょう。
そして、それとは別のニュースで、日銀が「マイナス金利」を導入したことを知っており、さらに、住宅ローンの金利が1%を切っていることを知識として持っている、そんなことが推定できます。

これらの手がかりを、ほとんど無意識的に結びつけることで、

「銀行のカードローンは高い金利で若者をダマして儲けていて問題だ」

という結論に飛躍しています。
これは、認知心理学でいう「ヒューリスティック」の一種と考えられます。
人間の認知は、あらゆる情報を「正確に」処理することよりも、少ない手がかりから確からしい推論に飛躍することで、認知資源を節約し、社会に適応していると言われています。

 

ヒューリスティック×メディア=誤解?

この「ヒューリスティック」、経験的な日常生活においては、多くの場合有効に機能するわけですが、メディア接触など抽象的な情報処理においては、偏った現実構成に至るケースがあるのです。

この老夫婦にとって、この吊り広告を出した銀行のブランドイメージは、かなり悪いものになったことでしょう。人間の認知特性とメディア接触の関係によって、現実認識(=銀行がいいのか悪いのか)が、事実とはかけ離れた形で構成されてしまうわけです。

ポイントは、メディアが嘘をついているわけでも、だましているわけでもない、ということです。メディア接触と認知の関係性によって、現実が無自覚的に構成されうるというダイナミズムが、ここに顕現しています。

このケースは極端で分かりやすい例ですが、実はメディアを通じた、人間の社会認識のほとんどが、これと同型的な構造によって成り立っていることに注意が必要です。小さなヒューリスティックの積み重ねが、現実認識を偏ったものにしている可能性について、意識的でいることが重要だと思います。

 

メディアに囲まれた環境における、現実構成のあり方を、いかに相対化してとらえ、メディアとの関係性を再構築し続けられるか?

その「気構え」のようなものが、広い意味での「メディアリテラシー」なのだと思います。